当時19歳の僕は、福祉の現場で働きながらコミュニティFM放送局のDJをしていました。そこへ取材に来られたのが、報道写真家の牧田清さんでした。
牧田さんは報道写真雑誌「アサヒグラフ」で活躍するカメラマン。
僕にとってカメラマンはテレビの中で活躍する存在で、将来を模索していた僕にとっては、とても興味を惹かれました。
牧田さんが使用していたカメラはキヤノンのEOS-1、レンズは単焦点50ミリ。
カメラマンベストを着て、ショルダータイプののカメラバッグを肩に下げて歩く姿は、僕のイメージするのカメラマン像そのままでした。
その後、お会いしてお話を聞くたびに、写真家への憧れは強くなっていきました。
そしてアルバイトで貯めた貯金で、牧田さんと同じキヤノンのカメラ、EOS-5とサブ機としてコニカヘキサーを購入し、写真家になると決意するのでした。
写真家を目指して、ネパールへ
二十歳の旅立ちでした。行き先はネパール。
子供の頃、ボーイスカウトに入っていた僕は、漠然と世界一高い山のある国へ憧れ、インディ・ジョーンズ「レイダース、失われたアーク」の舞台だったこともその要因でした。
カメラを購入したばかりで、写真の撮り方もわかりませんでしたが、バックパックに二台のカメラとフジのプロビアとベルビア(リバーサルフィルム)を計50本、寝袋、少量の現金を詰め、頭髪をすべて剃り、いい写真が撮れるまで帰国しないと決め、旅に出ました。
ネパールのトリブバン国際空港に到着し、いざ空港を出ようとすると、目のギラついた大勢の男たちの視線を一斉に浴び、僕はあまりの恐怖に、空港のトイレの個室に逃げ込んで『やっぱりだめかもしれない』と怖気付いて号泣するのでした。。。
生まれてはじめて感じる恐怖感、この地で僕はひとり、知っている人は誰もいないという感覚。
30分くらいトイレの個室で葛藤し、何とか気持ちを落ち着かせていざ空港の外へ。
難民キャンプでの挫折
カトマンズの近く、古都パタンにあるユースホステルを目指しました。
宿泊料金が格安なことと、政府がやっているので安心という理由でした。
予約はしていませんでしたが部屋は空室が多く、当時の料金でドミトリー(150円)シングル個室(500円)でした。
僕は迷わず、チャレンジする気持ちでドミトリーを選びました。
ここのスタッフたちがとても良心的で、旅の初心者である僕に、ネパールの歴史や旅の危険性について教えてくれました。
ドミトリーで一緒だった同じ年齢のチベット人とすぐに仲良くなりました。
坊主頭である僕の容姿がチベット人の僧侶そっくりだと。
彼のチベット人の仲間も紹介してくれて、一緒にモモ専門店(チベット餃子)を食べに行き、そのおいしさにびっくり。
そんな彼はチベット人難民キャンプの出身で、僕は写真家を目指していると言うと、それなら案内してあげると翌日行くことになりました。
難民キャンプの様子を見て、僕はどうしてもカメラのシャッターを切ることができませんでした。それは旅人である僕と、彼らの生活があまりにもかけ離れていて、興味本位で彼らの写真を撮ることができなかったのです。
写真家を志したばかりの僕は、チベットの歴史も知らず、報道意識もなく、旅人の勝手な感傷で捉えてはいけない、そんな思いでした。
ではいったい僕は、ネパールに何を撮りに来たのだろうか。。
肉体労働者たちとの出会い
パタンやカトマンズの古都を散策し、ふと肉体労働者に目がとまりました。
僕よりはるかに若い子供からお年寄りまで、幅広い年齢層の労働者たちが、普段着にサンダルという出で立ちで、レンガやブロックを背負い、危険な現場で働いています。
最初は少し離れたところから彼らの様子を伺い、少しずつ距離を詰める。目が合って、一瞬微笑んでくれたと思ったら、そっとカメラを出して一回だけシャッターを切る。
言葉も文化も違うので本当に少しずつ。
そんなことを毎日繰り返していると、彼らとの距離感が少しずつわかってきて、一緒にチャイを飲むような関係になっていきました。
彼らは皆、地方から仕事を求めてやってきているということでした。
彼らの働く姿を写真に撮り、お昼は現場の厨房でネパール人の料理係が作るカレーを一緒に手で食べ、夜は現場の裸電球の灯る明かりの下で、お互いぎこちない英語で語り合いました。
そのうちの一人が古都バクタプルに住んでいるとのことで、彼の家で寝泊りもさせてもらいました。
現場でカレーを食べても、彼らの家に泊まっても、決してお金の要求はなく、善意という気持ちが嬉しかった。
彼らの素朴さがとても眩しかった。この時、幸せって何だろう。二十歳の僕にとって、考えるべき人生の大きなテーマとなりました。
アサヒグラフへ写真の売り込み
帰国後、ネパールで撮影した写真を持って、東京にある朝日新聞社アサヒグラフ編集部を訪ねました。
残念ながら写真は採用されませんでしたが、僕がまだ若かったことで、編集部の方にはいろいろとアドバイスをしていただきました。
そして僕は一から写真を学ぼうと思い、撮影スタジオで助手の仕事に就き、いろんなカメラマンのアシスタントをして技術を学びました。
退社後はカメラを持って、海外へ撮影の旅に出かける、そんな20代を過ごしました。
写真の腕はまだまだでしたが、燃えるような情熱と、人間の本質をカメラを通じて見てみよう、自分にとって若さという勢いが最大の武器でした。
続く。。。